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== 安徽省 ==

合肥市!!

今日は安徽省の省都「合肥市」です (^・^)/
合肥市
安徽省中央の長江と淮河の間に位置し、巣湖に臨みます
南の淝河を通じて長江から海に出ることができ、
省都として安徽省の省人民政府等の行政施設があり、
地域の政治・経済・文化の中心となっています
位置


合肥という名の歴史は古く、紀元前3世紀(秦の頃)には、
合肥県としてその名は登場します
後漢の頃には「孫策(呉)」の領地でしたが、後漢末期(200年)に
孫策が急死したため、孫策により廬江太守に任命されていた
「李術」は、「孫権」に反旗を翻しました
李術は、まず揚州刺史の「厳象」を殺害し、それに乗じて
廬江の「梅乾」「雷緒」「陳蘭」ら数万人を集めて蜂起するなど
長江、淮河一帯は混乱の様相を呈しました
その時、「曹操」は「袁紹」と対峙していて、自らが討伐に向かえ
ないので、「劉馥」をこの地の制圧に向かわせました

劉馥
劉馥は単身馬で当時空城であった「合肥城」に入城すると、
行政機関を整備し「雷緒」らを帰順させ、屯田・灌漑の整備、
合肥城の整備強化などの政策を行いました
これより、何十年に渡る『魏』と『呉』の「合肥の戦い」の幕開けです

合肥の戦いの中で最も有名なのが、215年の「張遼」の攻防戦でしょう
この戦いにより、張遼は「遼来遼来」と呼ばれるほど、その名を
天下に轟かせました(かなりの名武将だったようです)
当時の合肥城は巣湖の北岸に位置し、曹操(魏)からすると、
呉に対する攻撃と防御の主要拠点でした
対する孫権(呉)からしてみれば、長江流域の完全掌握のため、
また外征のためにも確保しておく必要がある重要拠点でした
張遼

孫権は、劉備との荊州統治の係争が一応の解決を見たことにより、
北方(魏)へ10万の軍を率いて進軍を開始します
一方、合肥城の守りに着いていたのは、「張遼」「李典」「楽進」の
歴戦の将でしたが、その兵力は七千人程でした
軍隊の勢力差があるなか、猛将張遼は【攻撃をもって防御となす】
という戦略をとり、自分に従う勇敢な800の軍人を率い、
明け方に呉の陣営に襲撃を掛けました
この策は成功し呉軍は戦意を喪失、また呉軍陣営内に疫病が
流行り出した事もあり、わずか10日ほどで退却を開始しました
退却に気づいた張遼は、楽進らとともに急襲をかけましたが、
「凌統(呉)」とその部下の抵抗にあい、あと一歩の所で孫権を
討ち取ることが出来ませんでした
但し、この時の呉軍は「孫権」他、呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧の武将と
わずか数百人の兵となっていた為、魏の大勝利と言えます
李典

その後、三国時代になっても小競り合いが続きましたが、
ついにこの戦線の決着がつくことは無かったそうです

と、歴史を熱く語ってしまいましたが、詳しい事が知りたい方は、
正史版の三国志の方をお読みください
演義の方では端折ってありますので(蜀が主人公ですからw)


<逍遥津公園>
逍遥津公園
老城区の東北にある美しい公園です
逍遥津は先程書いた戦いで、張遼が追い討ちをかけ、呉軍を大敗に
導いた(孫権を逃したw)地として、市民に親しまれています
公園内には、完全に保存された曹操率いる魏軍の将軍「張遼」の
衣冠塚や塑像、逃げる際に「孫権」が馬で飛び越えたといわれる
飛騎橋等があります
張遼の像


<明教寺>
明教寺
逍遥古津公園の南側付近にある明教寺は、南朝梁武帝の時代の創建で、
唐代に補修拡張され、明代に明教寺と呼ばれるようになりました
ここにある高さ5mの「曹操教弩台」と呼ばれる壁は、三国時代に曹操が
この台に弓の名手500人と多数の兵士をつかせ、孫権の水軍に対抗しました
曹操教弩台
昔はこの台の上には「松弩松蔭」と呼ばれる松の木が茂っていましたが、
今はその面影はなく、台の東南の隅に「聴松閣」と呼ばれる建物が
その名残りを残すのみとなっています


<合肥新城跡>
合肥新城
233年に魏の満寵は、老朽化した合肥城では防衛が難しくなった事を
進言し、水路に近い合肥城を廃して、新たに西方に合肥新城を建設しました
今は合肥の西15Kmの鶏鳴山の東麓に、城の土塁が残っています


<袁術墓>
袁術墓
合肥市長豊県楊公鎮にあります
知る人ぞ知る群雄時代(後漢)の武将「袁術(字は公路)」
代々伝わる袁家の次男(袁紹の弟)で南陽太守でした
曹操の「董卓」誅滅の檄に応じた諸侯のひとりでもあります
家柄(お坊っちゃん)のせいか傲慢な自己主義で、孫堅の力が
大きくなるのを恐れて兵糧を送らなかったり、伝国の玉璽を入手した
ということで自ら帝位を僭称したりと、我侭し放題!
それで諸侯の反発を喰らい領地より追い出され、兄の袁紹を頼る途中に
劉備に襲われ、兵にも見捨てられ最期は病を発し亡くなったそうです
その袁術の墓(ほとんど土山)がこんな所にあるのは不思議ですが、
おそらく倒れた袁術を側近が埋めたものと思われますが、
暴君の最期というものはあっけないものですね


安徽城隍廟
という事で、合肥市のご紹介(殆ど三国志w)をしてきました
この他にも、上海の城隍廟のような「安徽城隍廟」という
ショッピング街(規模は比較になりませんが ^^;)などもあります
また、物価に比べてタクシー代が割安(昼6.25元、夜8.25元)なので、
バスに加えてタクシーが市内交通では市民の足となっています
(上海と一緒で、通勤時間帯は簡単にはつかまりません><)

それでは、今日もこの辺で (◎ω◎)ノ じゃあ、また

┃ テーマ:みんなに紹介したいこと ━ ジャンル:ブログ

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== Comment ==

安徽省
上海からは比較的近いのですが、私は未だ行った事がありません。聞くところによると排他的な土地柄だとか?どうなんでしょうね?
でも私の知り合いの小姐には安徽出身が多いです(笑)
mr.slim 様
本当に多いですし、女の子は、ちょっと可愛い子が多いからKTVに皆、入って来ますし男は不動産屋に入って来ます!何れにしても目的はお金ですので、ちょっと警戒すべきかと思いますよ~!ハルピン等北の子は信用出来る子が多い様に思います、経験上!!





        
 

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