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== 湖北省 ==

宜昌市

本日のご紹介は宜昌市です (^▽^)/
宜昌市
宜昌(ぎしょう)市は、湖北省の西部に位置する地級市です
長江三峡の下流に位置する港町で、長江クルーズや貨物船の
寄港地でもあります
<市データ>
総面積 21,084km²
総人口 約416万人
地図

この地の歴史は古く、長江の三峡の入口として軍事的に重要な地でした
楚と巴の文化の発祥の地とも言われ、詩人であり政治家でもあった
「屈原」と、中国四大美人の一人「王昭君」の故郷と言われています
三国志ファンいはおなじみの『夷陵の戦い』があった場所です

※「夷陵(いりょう)の戦い」は、222年に蜀漢皇帝「劉備」率いる蜀漢軍と、
 呉王「孫権」の武将「陸遜」率いる呉軍との戦いです
 この戦いは赤壁の後、呉が裏切り魏と手を結び、関羽を処刑した事から
 始まり、その上張飛も見方の裏切りにより亡くなりました
 この戦いによって英雄とされている3兄弟はほどなく終焉を迎えます
夷陵の戦い

その後の時代も重要な軍事港として栄え、清朝の時代にとイギリスとの間で
締結された『煙台条約』により宜昌は開港地に指定され貿易港として開港し、
中華民国~中華人民共和国初期は宜昌県とされていましたが、
1992年3月に地級市として現在の宜昌市が成立しました


「葛州壩ダム(発電所)」
葛州壩ダム
宜昌の市街地にある、長江を三つに分ける世界最長のダムの一つです
中国最大の水利枢紐プロジェクトとして、長江三峡の出口に建造され、
その長さは全長2561mもあります
このダムには船を通すための水門があり、また船着場にもなっています
長江水力発電の年間発電量は157kWhで、上海・河南・湖南・武漢等に
送電されています


「三游洞」
三游洞
西陵峡の東側の岩山に掘られた洞窟で、唐の詩人「白居易」が、
友人「元微之」と弟「白行簡」の三人でここを訪れ、一人一首ずつ
詩を作ったことより「三遊洞」と呼ばれるようになりました
もともと西陵峡の最後は、長江の流れの美しいところで、
古くから多くの詩人が訪れる場所であったそうです
三游洞
のちの宋の時代に、また別な三人「蘇洵」「蘇軾」「蘇轍」の父子が
やってきて、もちろん詩を作りました
この二組を区別するために、前を「前三遊」、後を「後三遊」と呼んでいます
「三游洞」には多くの歴代詩書、石刻が残されています

游三游洞(蘇東坡)
凍雨霏霏半成雪。(凍雨霏霏として半ば雪と成る)
游人屐冷蒼苔滑。(游人屐冷かにして蒼苔滑かなり)
不辞携被巌底眠。(被を携えて巌底に眠らんことを辞せず)
洞口雲深夜無月。(洞口雲深くして夜月無し)


「長板坡公園(長坂橋)」
長坂坡
長板坡公園は沮漳河の中流から下流にある当陽市にあります
長板坡と言えばお分かりと思いますが、趙雲が劉備の子を懐に敵軍を
駆け抜けた場所であり、長坂橋は張飛が一人で守った橋です
当陽は有名な三国時代の古戦場であるため“三国景勝の地”と称されています
長坂坡
長坂坡には玉陽鎮常山の趙子龍の像が幾重にも重なり、
包囲には並ぶ物が無く、勇ましい姿を南西に位置している
中国で最も有名な三国時代の古戦場の1つです
《三国演錦屏草木識英雄儀》に記された趙雲・張飛が
曹操と戦う物語はここで生まれました
長坂坡
長坂橋は「当陽橋」とも呼ばれており、当陽市の北の郊外と
西の郊外に中隊長がいたのでこの名が付きました
東漢建安13年(208年)、曹操は劉備を追撃しており、張飛は蛇矛を
素早く取り、馬に乗り橋の上で止まりました
大喝いわく:“燕人の張翼徳はここで、誰が決死の戦いを挑んでくるものか”
声は雷のように大きく、曹操の馬は驚き、衆将は一緒に西には駆け、
銃を捨てかぶとを無くした者は数えきれない
長坂橋は殺気を生んで、銃を構え馬に乗り目を見開く
その一声は、曹家の百万兵を退かせたそうです


「太子橋」(たいしきょう)
太子橋
長坡坂公園(長坡坂周辺は今は公園になっています)の西、遠安路の側にあります
東漢建安13年(208年)に曹操が荊州を取り、劉備は当陽で敗北しましたが、
その妻の糜夫人が阿斗を抱いてこの橋の下に避難したと言い伝えられている場所です、
「阿斗」は劉備の正妻の子の劉禅(字は公嗣)で、三国次代の蜀漢の後継の君主として
西暦223~263年の間在位しました
橋は何度も修繕が行われ、今もなお存在していますが、当時とは違い
レンガ作りになっています


「麦城」(ばくじょう)
麦城跡
麦城は当陽市区内の東南21kmにある沮水西岸に位置します
春秋の時の楚昭王の駐屯地として築かれました
周敬王14年(紀元前506年)、呉人は楚を攻め「伍子胥」はこの城を攻略し、
その左右に驢を築き、二つの城を潰しました
この事から「東の驢、西の磨、麦城は自ら破滅した」という諺が出来た地です
東漢建安 24年(219年)には、蜀の将軍「関羽」が呉襲撃の際、ここで態勢を
崩して敗退した事から、「関雲が麦城にいき敗走する」という言葉が残っています
こちらも「していました」の方がいいかもしれません
千百年来、城は洪水によって侵食され、流れてくる砂に埋没して荒れ果て、
現在は、周りは農地として使われ、小高い丘が残っているだけです


「関陵」(かんりょう)
関陵
当陽市区の西北3km所に位置する、関羽の胴体が葬葬られたお墓です
東漢建安24年(219年)冬、関羽は孫呉は交戦して敗れ、殺されました
呉主孫權将はその討ち取った首を洛陽まで運んで曹操へ謙譲しましたが、
同時に弔いその亡骸をここに埋葬したと言われています
この陵は、最初は土墳だけでしたが、南宋淳煕の10年(183年)亭を建て、
元至元年間、墓に通ずる道や墓穴の門を修繕・増築しました
明成化3年(1467年)には、廟が創建されています


娘娘井
その他にも、「張飛擂鼓台」や「劉封城遺址」(ともに三游洞に)、
「周倉墓」など、三国志ファンにとってはたまらない地です
また、娘娘井(糜夫人が身を投げた井戸)も残っています
現在はどこも観光地化が進み、整備されてきていますが、
以前は荒れ放題で、地元民さえ知らないと言う所が多かったそうです
それでは、今日のご紹介もこの辺で
(^・ω・^)ノ またね~



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