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== 陜西省 ==

西安市!!その5

今日で西安市も5時限目です \(^▽^*)
授業をはじめまーす
今日は市外の観光地の授業です、ここテストに出るよ~(笑)

まずは西安東郊(東側)から
「秦始皇帝陵」(しんしこうていりょう)
秦始皇帝陵
秦始皇帝陵は市内から30㎞離れた「臨潼県」の東約5㎞のところにあります
秦始皇帝陵とは、始皇帝が自らのために建てた陵墓で、
世界最大規模を誇り、(地下陵墓としては最大)世界最大の地上王陵である
古代エジプトのピラミッドと肩を並べています
始皇帝即位の時から建築が始まり、38年の年月をかけ造られました
これは、エジプトのピラミッド建築の年月よりも、さらに8年長い期間になります
また、陵墓建築に携わった人数は最大時で80万人を越えていて、
これはピラミッド建築に携わった人数の8倍にもなるそうです
1987年には世界文化遺産にも指定されています

秦始皇帝陵
陵園は秦代の都であった「咸陽」に似せて造られました
回の形になっていて、陵墓の内外には二重の塀がめぐらされており、
陵園の内塀は3870m外塀は6210mもあったそうです
現在、陵区内には寝殿、便殿、園寺吏舎などの大型の遺跡が発掘されています
秦始皇帝陵自体は土を盛って造られたもので、3階建てのお碗型になっており、
底面部は方形で、その面積は25万㎡、高さは115mもありましたが、二千年以上
風雨にさらされたのと、人によって破壊されたため、現在の底面積は約12万㎡、
高さ87m、陵区の総面積は56.25k㎡にまで減っています
始皇帝は生前の栄耀栄華をすべて地下に封じ込めた為、
始皇帝陵には秦代文化の粋が集められています

『史記』には陵墓の核となる地下宮殿の作成について以下のように記されてます
「地下深く穴を掘り、銅を敷いて、棺を納められるように造られている。
 百官や珍宝が周囲を満たしており、盗掘を防ぐために、矢の発射装置が
 置かれる、天井には太陽、月などの天文図が描かれ、底には水銀がはられた
 川や海があり、魚の脂を使った蝋燭で墓室を照らしている」

秦始皇帝陵
発見された内装品の数は豊富で、世に有名な「兵馬俑陪葬坑」や
「銅製車馬坑」のほかにも、「大型の石鎧甲坑」「百戯俑坑」
「文官俑坑」「陪葬墓」など600点以上が見つかっており、
数十年にわたる秦陵の発掘で出土した文物は、10万点以上にも及んでいます
陵園内には多くの文物展示台が設けられ、過去20年間に秦陵から出土した
文物が展示されていますが、まだ発掘できていない場所も数多く残っており、
今後の発掘技術の進歩により、思いもよらない重大な発見があるかもしれません


「秦始皇帝兵馬俑博物館」(しんしこうていへいばようはくぶつかん)
秦始皇帝兵馬俑博物館
兵馬俑坑は、秦始皇帝陵の東約1㎞のところにあります
1974年、西安市臨潼区の村人が井戸を掘った時、大小の俑を見つけた事により
発見され、この兵馬俑から始皇帝の時代の政治・経済・文化・軍事状況が
明らかになりました
1979年の国慶節に、壮大式典と共に「秦兵馬俑博物館」が開館しています

秦始皇帝兵馬俑博物館
この発見は「世界八大奇跡」と称され、最も貴重な発見の一つとされています
秦兵馬俑の規模は巨大で、高度な科学技術レベル、芸術レベルと
各界のの科学者・研究者達を驚かせました
また、古都西安は兵馬俑があることから、いち早く国の最重要観光都市に
指定され、国内外の多くの観光客が訪れこととなった訳です
今までに秦兵馬俑博物館を訪れた国内外の旅行者は 5000万人を超え、
その内、国外からの旅行者は500万人以上にものぼり、
国外の政府首脳クラスの要人から首相総理まで、数多くの権力者達も訪れています
アメリカ大統領のレーガン・クリントン、フランス大統領のミッテラン・シラク、
英国女王エリザベス二世、ドイツ大統領のカール・ヴァイツゼッカー、
日本の首相竹下登・村山富市、明仁天皇、シンガポール総理の李光耀、
国連のガリなどなど数え切れないほどです

兵馬俑坑は、最初の発見から前後して1・2・3号の三つの坑が見つかっています
<一号坑>
秦始皇帝兵馬俑博物館一号
最初に見つかった坑で、干ばつに窮した地元農民が井戸を掘り始めた所、
二、三メートル掘ると変わった陶器の破片が見つけ、考古学者の鑑定により、
ここに始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが発見されました
3つのうち最大規模で、長方形をしており、戦車や歩兵が並ぶ軍陣ガ組まれています
長さ210m幅62mあり、地表からの深さ4.5から6.5m、面積は14260㎡、坑内には
幅2.5mの10本の道が造られ、周囲を回廊でとりかこむ構造になっています
現在、陶俑1000体以上、戦車8台、陶馬32頭、様々な青銅器1万近くが発掘され、
出土した兵馬俑の配列の間隔からみて、1号坑に埋葬されている兵馬俑は
6000体余りにも及ぶとみられています
上から見下ろすと、東の端の3列の歩兵俑は東を向き、68体ずつ並んでおり、
これは軍陣の前衛になり、後方には戦車と歩兵が38列に渡って並んでいます
その他にも南・北・西の端には、それぞれ1列づつ軍陣の翼衛、後衛があり、
およそ2000年前の古代の大軍陣が、武器を持ち、鎧甲を身につけて、
雄雄しく居並ぶ様を見ていると、一瞬のうちに時を飛び越えて、
戦車や雄たけびのとどろく古戦場に身を置かれたような感じにさせられます

<二号坑>
秦始皇帝兵馬俑博物館二号
一号坑の北、約20mのところにあり、底面は曲尺形で、1976年に見つかりました
秦俑坑の精髄となる坑で、二号坑の発見は古代軍陣の謎を解き明かしました
規模は東西最長 96m、南北に84m、深さ約5m、面積はおよそ6000㎡で、
4つの区画からなっていて、第一区画は東の突出した部分にあたり、
弓・弩を持っている状態の弩兵俑のようです
第二区は俑坑の南半分にあたり、四頭立ての戦車の車兵が方陣をとっています
第三区は俑坑の中央にあたり、車兵・歩兵・騎兵俑の混合編制で長方陣形です
第四区は俑坑の北半分にあたり、多くの騎兵が長方陣をとってい、あす
四つの方陣が組み合わされ、戦車・騎兵・弩兵の混合編制で、
進撃⇔後退⇔守備と臨機応変意対応できる陣形となり、
その並びは整然としていて、一分のすきもないようです

<三号坑>
秦始皇帝兵馬俑博物館V3
一号坑の西北にあり、凹字形をしています
武士俑は狭道にそって護衛の隊形に配列されていて、
軍陣の指揮をとるための古代の軍幕をかたどっているようです
1976年に発見され、1987年に一般開放されました
規模は最も小さく、一号坑からは25m、東の二号坑からは120m離れており、
三つの坑は「品」の字のように配列されており、3つで秦皇帝の時代の
戦略を垣間見る貴重な遺産となっています

(ここで知らない人の為に)
秦始皇帝
秦始皇帝は中国史上最初の皇帝で、中国統一という偉業を成し遂げました
その一方で、焚書坑儒の罪も犯していますが、この皇帝の功罪については、
今なお歴史学者の間で論争の的となっています
彼は感覚が鋭く、思い切った行動とっていたと言われており、
大きな事を好み、権謀に長け、残忍、冷酷無情、独善的で、贅沢と、
典型的な権力者の見本のような人物だったようです
姓は嬴(えい)、氏は秦(しん)、諱は政(せい)
紀元前259年1月に生誕し、前210年7月に亡くなったといわれています

※焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)とは
 「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」
 と言う 意味で、秦で起こった弾圧事件の事です
 秦の始皇34年(紀元前213年)に、儒者たちが古えによって現政府を
 批判しているという噂により、弾圧が始まりました
 始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の
 所有を禁じた令)を制定し、民間人が所持していた書経・詩経・
 諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、
 焼き払うことが命じられました(焚書)
 翌年には、「廬生」や「侯生」といった方士や儒者が始皇帝が独裁者で
 刑罰を濫発していると非難し逃亡したため、咸陽の方士や
 儒者460人余りを、生き埋めにし虐殺しました(坑儒)


「華清池」(かせいち)
華清池
西安から東へ30km、驪山のふもとにある天然温泉で、
西安に都をおいた歴代皇帝から特に愛された景勝地であり、
六千年の歴史がある温泉だそうです
唐玄宗と楊貴妃の逸話で広く知られる華清池ですが、周の幽王が
驪宮を建てたと言われ、その歴史は西周の時代から続いています
秦の始皇帝は石室を作って「神女湯泉」と名づけており、
漢の武帝は驪宮の増築をし、唐代には大規模な修築が行なわれました
特に唐玄宗の天宝年間には宮殿楼閣がより豪華に改修され、温泉を
池にまで拡張し、その池を宮殿内部に配し、「華清宮」と名付けました
宮殿が温泉の上に建てられていたため「華清池」と呼ばれています


「半坡遺跡」(はんはいせき)
半坡遺跡
半坡遺跡(博物館)は市街地から東に6km離れた産河東岸の半坡村にあります
はるか昔に人類が誕生し、黄河流域に中華民族が誕生しました
世界中のあらゆる文明が滅んでいった中で、中華文明だけが現在まで
続いており、半坡遺跡はその原始人の村落遺跡で、中国内で唯一完全な形で
現存する原始人社会遺跡で、6000年の歴史があるそうです
黄河流域で最大規模をほこる母系制社会の村落遺跡であり、仰韶文化に
属するものと解明され、黄河流域の関中地区で、このような遺跡が400以上も
発見されたため、黄河流域が中国古代文明の発祥地と言われています

半坡遺跡
半坡遺跡は1953年に発見され、住居遺跡45ヶ所、家畜小屋2ヶ所、
陶器製作所が6ヶ所、穀物貯蔵所が200ヶ所以上、成人及び子供の墓、
埋葬甕が 250個、生産工具、生活用品1万点余りが出土しました
1958年遺跡の上に半坡遺跡博物館が建てられ、その中には展示室のほかに、
原始村落居住区を覆う形で 3000㎡の保護ドームが建てられました
遺跡は居住区、陶器制作区、墓所の3つの地区に分けられ、
居住区が村落の中心となっています
半坡遺跡は典型的な石器時代の村落遺跡で、使用されていた道具の大半は
木製か石器で、女性が中心となって、陶器作成・糸紡ぎ、家畜の世話など
といった生産活動を行い、男性は漁や猟を行なっていたようです


「鴻門宴遺跡」(こうもんえんいせき)
鴻門宴遺跡
現在の臨潼県新豊鎮鴻門堡村(兵馬俑から2.5km)の所にあります
驪山の中で最も北にある観光スポットで、南に驪山、北に渭河があり、
潼関から長安へいたる際の要所でした
遺跡の前には長さ1kmにわたって峭原があり、
その中央には刀で切られたように南北に洞穴があります
それが城門のように見えるため、「鴻門」という名がつきました

大漢風
楚漢が覇権をあらそった故事から二千年、英雄的気概をもった項羽と
隙をうかがう劉邦とが、知力を尽くして覇権を争った様は、
いまだに消え去ることなく、目の前に浮かんでくるようです
秦末、項羽と劉邦が天下を争い、劉邦が先に関中に入って
秦軍を打ち破り、子嬰を捕虜とし、灞水に陣取りました
強大な勢力をほこっていた項羽は後から関中に入り、鴻門に陣取り、
二人の覇権を争いが行われた訳ですが、詳しい内容は一昨日に
SAMARQAND様から頂いたコメントの中の、『大漢風』という
中国ドラマをぜひみて下さい(日本語版がレンタルされてます)


「臨潼博物館」(りんどうはくぶつかん)
臨潼博物館
臨潼県城東にある、県内の出土品を展示する地方博物館になります
1979年に建てられ、敷地面積は6600㎡、展示面積は600㎡
建物には、中国北方の特徴的な建築様式の四合院造りを採用し、
館内には周秦芸術室、唐代仏教芸術室、漢唐芸術室の3室と碑廊があり、
新石器時代から明清代までの文物あわせて1万点以上が収蔵されています
その中で最も古いのは西周の青銅器で、武王の紂王討伐が
唯一記載された遺物で大変貴重な物です
ほかに唐慶山寺遺跡から出土した「金棺銀椁」、最も貴重な仏教文物とされる
「釈迦如来舎利宝帳」などがあり、国家級特級文物となっています
臨潼博物館


キ~ンコ~ン♪カ~ンコ~ン♪
おおっと、兵馬俑坑の説明が長くて時間が来てしまいました
東部の観光スポットはこれで終わりですが、あと南部と西部が
残っていますので、それはまた次回にでも
それでは、これで授業を終わります、よ~く復習しておくように!
(^・ω・^)ノお疲れ様~

大漢風




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== Comment ==

No title
兵馬俑は、やっぱり凄いですね!
私の行ってみたいリストに入っていますが、いつになったら行けるのやら・・・(笑)
mr.slim 様
コメント感謝です!
TVではよく見てると思いますが、自分の目で見るのとはまた違います!
是非、行かれてみて下さい!今は、交通も便利になっていますから!
施設は比較にならないほど充実してますね
■ももたろう様。
お早うございます。
毎日拝見していますが、私が西安を訪れたのは、天安門事件の翌年ですから、
ずっと昔ですが、先日来のあなたの記事の通り、施設も格段に充実していますから、
ぜひ再訪して詳しく見てみたいと思います。
「華清池」の写真を見ても、池の端に美女のヌード像(楊貴妃?)があったりして、
隔世の感があります。
いつも有難うございます。
では、また。
sohya 様
何時もコメント有難うございます!
私も、再訪しようかと思っています!





        
 

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