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== 陜西省 ==

咸陽市!!

本日は陝西省の咸陽市です (^▽^)ノ
咸陽市
咸陽市は陝西省の中央西に位置する地級市です
前352年に「孝公」が咸陽城をつくって都をここに移したのが始まりで、
その後、始皇帝により阿房宮造営の大規模な工事が行われ、
当時としては稀な巨大都市になり、秦朝の首都として栄えました
名前の由来は、九嵕山(きゅうそうざん)の南、渭水の北に当たり
「咸(みな)陽」とついたそうです
地図

<市データ>
総面積 10,196km²
総人口 約505万人


「咸陽博物館」(かんようはくぶつかん)
咸陽博物館
古都咸陽の中心地、中山街にある地方型博物館です
1962年に、明代に建てられた孔子廟を博物館に改築したもので、
咸陽は秦王朝の都であった為、漢代の陵墓も集中しており、
そのためこの博物館に所蔵されている文物は、大半が秦漢代のものです
中でも「西漢三千彩絵兵馬俑」が有名です
咸陽博物館
咸陽博物館には現在7つの展示室があり、秦咸陽歴史文物展示室が3室、
西漢帝陵文物展示室が1室、西漢三千彩絵兵馬俑の専門展示室2室、
(この2室だけで7000点以上が展示されています)
ほかに臨時展示室が1室になります
これらの展示室には周、漢、唐代の銅器、鉄器、陶器、磁器、
石刻、書画、玉器などの歴史的文物が2万点以上収蔵されており、
秦漢の歴史を研究する際の貴重な資料となっています


「茂陵」(もりょう)
茂陵
西安市から西北へ40kmの興平県東北の茂陵村にある、
西漢第5代皇帝(第7代との説もあり)武帝劉徹の陵墓です
ここは漢代の槐里茂郷にあたり、武帝建元2年(141年)に寿陵(生前墓)が
造られ、紀元前87年に武帝が亡くなってここに埋葬されました
漢武帝劉徹は、秦の始皇帝と並び称されている、
才略にたけた封建時代の皇帝です
茂陵
墓には武帝の金縷の玉衣、玉箱、玉杖などが入れられたといいます
当時の陵園内には祭祀を行なった便殿、寝殿、宮女や守陵者が
居住した建物などもあり、 5000人がこの陵園の管理を行い、
木々への水やりや、清掃などをしていました
さらに茂陵の東南には茂陵県城が建てられ、多くの文武大臣や名門の富豪が
ここへ居を移し、人口は277000人以上にもなっていたそうです
茂陵は土を枡形に盛ったもので、漢代の皇帝陵墓の中で最も規模が大きく、
建造期間も最長で副葬品も非常に豊富で、「中国のピラミッド」と呼ばれています


「楊貴妃墓」(ようきひぼ)
楊貴妃墓
興平市馬嵬鎮の西500mにある、伝奇的人物、楊貴妃として
世に知られる「楊玉環」の墓です
墓と名前は付いていますが、実際には楊貴妃の装束が
おさめられているだけとなっています(遺体は無し)
塚の高さは3mで、全体が青レンガで覆われている碗型をしています
墓の後方には、高さ約6mの大理石の楊貴妃像が作られています
楊貴妃墓
元々はレンガではなく普通の土を持った墓でしたが、旧暦3月3日に、
ある若い女性がここへやってきて、墓の上の黄土を持ち帰りました
おしろいと混ぜ合わせて「貴妃粉」にして塗ると、肌が白くなり、
さらに美しくなれるという噂になり、毎年3月3日には女性が
こぞって訪れて土を持ち帰った為、塚はどんどん小さくなりました
楊貴妃
その為、この1200年の歴史をもつ遺跡を守るために
青レンガで塚を覆ったのだそうです


「永泰公主墓」(えいたいこうしゅぼ)
永泰公主墓
永泰公主とは、李仙のことです
李仙は唐高宗李治と武則天の孫で、中宗李顕の第七女になります
武則天の甥の息子、附馬都尉の武延基に嫁ぎ、701年、洛陽で
亡くなったのですが、その時わずか17歳という年齢でした
改革解放後に発掘された唐代の墓の中で最大級のものになります
永泰公主墓
墓は1960年から1962年に発掘されました
土をもって造られており、墓穴はレンガ造りになっていて、
墓道、過道、天井、雨道、墓室から成っており、全長は 87.5m
中には彩絵唐俑、騎馬俑、三彩馬、陶磁器皿などの副葬品が置かれています
この墓はかつて盗掘されたことがあり、
墓道の中には盗賊が侵入した痕跡が残っているそうです


「懿徳太子墓」(いとくたいしぼ)
懿徳太子墓
乾県東南の端、韓家堡北にある、乾陵の陪葬墓です
懿徳太子李重潤とは、唐中宗李顕の長男にあたります
1971年7月から1972年5月に発掘が行なわれ、墓の全長は100.8mあり、墓道・
6つの坑道・7つの中庭・8つの小龕甬道・墓室など8個所から成っています
ここからは陶器の人形、三彩陶の人形、陶器、金、銅、鉄器、
欧陽詢書体が彫られた玉に金を流し込んだ綴りの断片など、
1000点以上の様々な文物が出土しています


「章懐太子墓」(しょうかいたいしぼ)
章懐太子墓
乾県梁山のふもとにある、乾陵の陪葬墓です
章懐太子李賢は、高宗李治と武則天の第六子になり、
初め雍王に封じられ、後に太子に立てられて、監国に奉じられました
李賢は学者を集めて『後漢書』の注をつけたが、これが武則天の
専横を批難したととられ、調露2年(680年)に武器を隠匿し反逆を企てた
との罪をきせられて、庶民に落とされた上、巴州に流され、
文明元年(684年)、31歳の時、武則天に自害させられた悲運の人です
中宗が復位して乾陵に陪葬され、睿宗の景雲2年(711 年)には
章懐太子に追封されました
章懐太子墓
墓は1971年から1972年に発掘され、陵園の全長は180m、幅は143mあります
壁画、彩絵陶俑、三彩器、陶磁器、石刻などの文物、600点以上が出土
しており、墓の中には、50幅(組)以上の壁画が描かれていて、
その面積は400㎡にも及び、大半がほぼ完全な状態で保存されています


「乾陵」(けんりょう)
乾陵
乾陵とは、乾県城北6kmの梁山にある唐高宗李治と女帝武則天の
合葬陵墓の事で、「唐十八陵」のうちで最も保存状態がよいとされています
中国史上唯一の二人の皇帝を合葬した墓で、山全体を陵としています
梁山には3つの峰があり、北の峰が海抜1047.9mと一番高く、
合葬墓はこの峰にあります
南にある二つの峰はそれより低く、東西に対峙するその中央に
「司馬道」があり、この二つの峰は「乳峰」と呼ばれています


「昭陵」(しょうりょう)
昭陵博物館
昭陵とは、唐太宗李世民の墓で、咸陽市礼泉県東北10kmの九宗山にあります
「天下の名陵」と言われ、文物の宝庫となっており、地上・地下に
残された大量の歴史的文物は、ふもとの昭陵博物館に展示され、
唐代前期の政治、経済、文化の隆盛ぶりを示しています
館内には別に碑石展示室があり、歴代大家の書や碑が収められ、
「昭陵碑林」と呼ばれています
ちなみに、瀋陽の昭陵(北陵)とは関係ありません
昭陵


咸陽市のご紹介はこれで終わりですが、
今回はお墓ばっかりになりました(笑)
それでは、また次回 (^・ω・^)ノまたね~

楊貴妃





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